めち忘備録

毎日もにもに

忘備録。1

覚えているうちに書いておこうと思う。去年も思ったのだけど書けなかったので。もしかしたら多少前後している部分があります。

 

 

母方の祖父は県内の車で二時間くらいの場所に住んでいて、毎年正月二日に身内だけで集まって宴会をするので体が弱っていたのは知っていたのだけど、寝たきりになっているとは知らなかったのでした。様子を見に行っていた母が言わなかったので。私は私で転職した直後で正月以外に顔を見せに行くことがなかなかできず、また、母がそういうメンタル面で弱いことも知っていたので、なんでもっと早く教えてくれなかったんだと思いながらも言えなかったのでした。けれど、そろそろ危なくなってきているし、父が出張で西安に行くことが決まっていたので、その前にみんなで顔を見せに行こうということで、日曜日に会いに行くことになりました。

その日曜日というのが、2011年3月13日でした。

当時の職場は某行政からの委託業務事業で、事業所全体でノルマが達成できていなかったので前日の土曜日は珍しく休日出勤が決まっていました。また、私生活の人間関係でちょっと面倒なことが重なって精神的にいっぱいいっぱいで、休日出勤したあと飲み屋で友人に愚痴を聞いてもらう予定にもなっていました。仕事は契約社員でしたが契約2ヶ月目でグループリーダーを任されるようになって右往左往しながら毎日胃が痛い感じで、それでもとりあえず今日で金曜日だし土曜日までは頑張ろうと思いながら仕事をしていたのが、3月11日でした。

当時の職場は20年以上前に作られたビルの20階より少し上の階だったので、今まで体感したことない大きな揺れを感じた時に最初に思ったのは「柱が一本でも折れたらおしまいだな」でした。脳裏には米国の同時多発テロの時の崩れ落ちるビルの映像が浮かんでいました。揺れがおさまってから思ったのは「とにかくAさんを家に帰さなきゃ」でした。ちょうどその日の朝、受け持っているグループの一人であるAさんが妊娠初期でちょっと気持ちが不安定だと聞いたばかりだったので。

当然エレベーターは止まっているので階段を使わなければならないのですが、20階を越える階なので一度降りたら簡単には上がって来られないし、下の状況や周辺の状況も全く分からない。テレビが一台もないからニュースも見られないし、上層部からの指示も全くない状態だったので混乱したり苛立ったりしていました。何人かは荷物をまとめてさっさと帰っていました。

メールで家族と連絡を取ってとりあえず全員の無事を確認したあと、後日上から何か言われたらその時に考えればいいや、と思って、とりあえずAさんにはグループの他の女性陣に付き添ってもらって先に帰ってもらうことにしました。幸い女性陣は自宅が近いとのこと、Aさんも自宅から迎えが来るとのことだったので、とりあえず安心しました。

このあたりでやっとネットに情報が上がり始めて、最寄りの鉄道が全く動いていないことが判明したので私自身は帰ることを諦めました。地震の直後に職場を出ていれば明るいうちに歩いて帰ることもギリギリ可能だったかもしれませんが、この時点で既に二時間以上経過していたので、真っ暗かもしれない国道(治安があまり良くない)を歩くよりもこのまま電車が動くのを待った方が良いと判断しました。

職場のビルの目の前にある工業系の工場が爆発炎上して、下から消防車のサイレンの音が鳴り響いているのが聞こえて、これはいったいどういう状況なんだろうかとぼんやり考えました。これが午後四時半ごろ。

帰れる人が帰ったあと、同じように電車が動かなきゃ帰れない他のグループリーダーさんたちと、他にやることがないから仕事していました社畜です。とにかく気を紛らわせたかったというのもあったのですが。でも午後七時にサーバーを落とすことになっていたので、そこでお仕事おしまい。

どの段階だったか忘れましたがその前後に、とりあえず食料を確保しようということで下まで降りて最寄りのセブンイレブンへ。ピリピリとした苛立ちは感じられるものの、レジの長蛇の列にみんなちゃんと並んで、店員さんは必死にレジを打っていました。あの時お店を開けていてくれて本当にありがたいと思いました。本当は店員さんたちも帰りたかったはずなのに。

緑黄色サラダパスタとカップラーメンとお菓子といくつかと、あとお泊り用のコンタクト洗浄剤とタオルと洗顔セットを購入してビルに戻ったらエレベーターが復帰していました。恐る恐る乗って職場に戻り、仕事を終わらせたあと、買ってきた洗顔セットで化粧を落として残った人たちが集まっている休憩室でサラダパスタを食べながら、他の人が見ているネット動画(たぶんNHKのニュースを動画サイトにアップしたもの)の音声をぼんやりと聞いて、ここでようやく震源地とその規模を知りました。津波があった、ということもここで知ったのですが、その被害まではこの時点ではまだ知りませんでした。

目の前の工場はまだ火柱が上がっているし、その先は東京湾だし、余震も続いているし、いつ耐えきれなくなるかわからないビルの高層階で、ウォークマンで音楽を聞きながら、外したコンタクトを何かあったらいつでも付けられるように近くに置いて、休憩室の椅子を三つ並べて貴重品の入ったカバンを枕に、ダウンジャケットをふとん代わりにして寝ました。こわくておなかいたくて泣きながらとにかく家に帰りたかった。確か梶浦さんのFictionJunctionのライブベスト(CD二枚組のあれ)を延々とリピートしていたと思う。ツイッターに書き込んで、お返事もらって、そのiPhoneをぎゅっと握ったまま寝ました。

なかなか眠れないと思ったのに意外と寝られるもので、目が覚めたら朝の八時くらいでした。よろよろと起き上がったらテーブルの対面で、他の人と一緒は嫌だからと言って別の部屋で寝ていたグループリーダーさん二人(20代と30代の女性)が、昨夜一緒に化粧を落としたはずなのにきっちり化粧して髪型も整えた上で朝食を食べていて、なんかすげぇなと思って拍子抜けました。

わたしそんな化粧道具一式普段から持ち歩いていないし、と思いながらすっぴんでとりあえずコンタクトだけ付けてカップラーメンもぐもぐしていたら、他の人たちが出勤してきました。ちょっと意味が分からなかった。そういえば今日は出勤日でしたね?と思いながら顔洗って洗顔セットに入ってた基礎化粧だけして、そのまま私もお昼過ぎまで仕事しました。今思い返すとみんなバカだと思う。思うけど、仕方なかったと思う。上の人が栄養ドリンクを差し入れてくれました。エスカップだった気がする。

黙々と仕事をしていたら相当顔色が悪かったらしくて、電車も動いているみたいだし帰っていいよと言われ、とりあえずその朝に決めていたノルマをこなしていたので帰りました。ほんとバカだと思う(二回目)。数時間ぶりに外に出たら、駅までの道が住宅街の中にあるのですが、子供が楽しそうに遊んでいる普通の土曜日の昼間の様子で、昨日のことは夢だったんじゃないかってなりました。よろよろ帰宅したら自室が凄いことになっていたので、夢じゃなかったって思い知りましたけど。

 

以下当時のツイート。

ただいま帰宅しました。予想はしていましたが部屋に一歩も入れませんでした。主に本が散乱していて床が見えません。割れ物が無事で当面の危険はないので、お風呂はいったら一回寝ようと思います。二日ぶりにテレビを見て心が折れそうだけど、被災地の速やかな復旧を願います。 posted at 16:56:40

一時間くらいぬるま湯に浸かって、ニュース見ながらほかほかご飯食べて、散乱した部屋を掻き分けてあったかいおふとんに入って、ツイッター開いて頂いたリプライと各種情報と励ます言葉の山を目にしたら糸がぷつんと切れたらしくて自分でもびっくりするくらい大声で泣いた。怖かった。本当に怖かった。 posted at 19:24:10

あたまのなかぐちゃぐちゃで、でもやっと寝付けそうなので寝ます。起きたらお返事します。仕事してたから大丈夫だと思ったけど自分の家族以外に気を回すことが出来なかった時点で相当テンパってた。たぶん大丈夫だと思ってても大丈夫じゃない人がたくさんいると思う。大丈夫、は便利すぎる言葉だよ。 posted at 19:32:38

不要な電源は全部引っこ抜いた。散乱した部屋から眼鏡と充電コードだけとりあえず発掘したので残りは目を背けつつ、おやすみなさい。 posted at 19:36:11